6月27日 水曜日
(「単なる水」こそ、永遠なるサプリ)
決めては 20才からの 成長力
親が、我が子に関心を寄せるのは(成長に期待するのは)、普通、長く引きずっても、せいぜい大学に入る頃までである。
会社に入り、結婚し、子供(孫)が生まれたら、関心の対象は、孫君達に移り出す。
幼なき頃には、熱狂的なほどに
・ヤレ どこそこの 幼稚園
・ヤレ どこそこの 小学校 中学校
・ヤレ どこそこの 高校 大学
と、真剣に考え、激しく悩み、関心を寄せた目は、・・・・子供が20才前の辺りから、急速に減速する。
しかしよく考えると、その子の人生は、・・・・極端に言えば、20才以前なんか、何処の幼稚園にはいろうが、どこの大学入ろうが、どうでもいいのである。
その間は、その子の人生と言うよりは、その親の人生(的)であるからだ。
問題は、成人式を過ぎた当たりからである。
で、なければならないのに、・・・・成人式は、親の、子に対する「無関心の始まり式」になってしまう。
肝心な事は、成人以降の子に対する親の目は、幼なきころの目ではダメ。
「目力(メヂカラ」とでも言えばいいのか。
子に密着する必要なんか、全く無い。
むしろ、遠く離れて、しかも、目が力を持つ関心度、・・・・そんな、親の存在。
分かり易い例えで言うと、
・オレオレ詐欺
・振り込め詐欺
などが、瞬時に跳ね返せる、「目力」を持ち続ける事で有り、見続けてやることである。
かっては、あんなに関心よせていあたのに、その後、何の「目力」も持ちえないから、詐欺に簡単に引っ掛かるのだ。
こんな関係は、最早「親子関係」とは呼ばない、・・・・そう思えて仕方が無い。
仮に、自分が没するまで、目力を持ち続ける事が出来たなら、それは、自分が、晩年まで元気で、聡明性を保てた事になる。
だから、子供に生涯にわたり注ぐ目力は、子供の為と言うよりも、むしろ自分の為である。
親子の存在の意味が、ここにある。
結婚しても、子供なんかは要らないとするならば、・・・・その人達は、人生の90%を捨ててる、・・・・そう思う。
我が子の20才からの成長性を、・・・・「お手並拝見」とばかり、遠くから眺めていればいい。
ひょっとして、成功するかも知れない、・・・・荒波に飲まれて、失敗するかも知れない、・・・・どっちに転んでも、親は目力で見てるだけ。
どっちも、その子の人生である。
子は、20才以降からだ、・・・・。
つづく。