4月24日 火曜日
(「単なる水」こそ、永遠なるサプリ)
弁 護 するって 一体 何を どう 弁護する と 言うのだ
一体、何を弁護すると言うのだ、・・・・こう叫びたくなる事故が、またまた発生してしまった。
昨日午前、京都府亀山市で起きた、集団登校中の児童の列に、軽自動車が突っ込んだ事故だ。
小2の児童二人と、付添いの保護者、それに、保護者のお腹の赤ちゃんが死亡した。
尚、二人が重体だと言う。
18才の少年が犯人。
無免許。
友達二人とともに、一晩中ドライブを楽しんだ挙句の、居眠り事故である。
昨日のラジオで、3人の少年らは、事故後、特段困り果てた様子も無く、平然と電話を掛けていたと言う。
この連中にも、弁護士がつくのだ。
一体、何を弁護すると言うのだ。
弁護士の必要性は、一般論として分かる。
仮に、自分が巻き込まれたとなると、弁護士の必要性を、さらに実感すると思う。
ただ、我々素人目から、単細胞的に見ると、その男・その女(年齢を問わず)、「弁護不要」なる人間が居る。
昨日の事故は、まさに、弁護不要だ。
こんな、デタラメで、バカな連中に、命を断たれたら、それこそ死に切れない。
もし、自分の子供が当事者なら、一切の弁護不要を叫び続ける。
弁護なんか要らない、・・・・。
弁護士先生よ、例えついても、絶対に弁護するな、・・・・。
つづく。