9月20日 火曜日
(「単なる水」こそ、永遠なるサプリ)
去るものは 日々に 疎(ウト) し
昭和41年(1966ネン)4月、同期に入社した親友が、昨年9月に亡くなった。
あれから1年、昨日、四谷の菩提寺(西念寺)で、一周忌の法要が営まれた。
亡くなった当時、取り乱だしていた奥さんを始め、肉親の諸氏は、それぞれに感慨はあろうが、落ち着きを取り戻していた。
勝俣部長の母親は、私が20才のとき死んだ。
膵臓ガンに侵され、その年の2月に入院手術し、8月に、「1泊2日」の自宅帰りの旅をし、結局は新年を迎える事無く、11月に他界した。
当時私は、自分の心をどう処理していいのか分からず、随分悩んだ。
多分、このショックは未来永遠に引きずるものと、絶対に思っていた。
あれから50年近く経つが、・・・・絶対に「引きずる」と思ってた事がら自体が、一体何だったのかさえ、忘れてしまった。
いい加減な奴だ、とも言えるが、・・・・「日々に疎し」があるからこそ、我々は生きられるとも言える。
以降、絶対などと、何が有っても使わないことにしている。
我々が持つ絶対は、・・・・絶対にたったの二つしかない。
・絶対に死ぬ事と
・死ぬまでは絶対に生きられる
この二つである。
だから、何があっても、精一杯生きることだ。
つづく。