10月16日 日曜日
(「単なる水」こそ、永遠なるサプリ)
折角(セッカク) と言う 言葉の持つ 悲 劇
「折角」、と言う言葉がある。
一般的には、「わざわざ」を意味すると思う。
ただ辞典を見ると、「つとめて」とか、「一生懸命」などの意も出ている。
私はこの言葉は、実に「家庭内」と言うか、「人間的」な言葉だと思う。
端的な「例」で示すと、・・・・まさに、「家庭内」の言葉で有る事が見える。
仕事上とか、仲間内でとか、・・・・外で食事を済ませ、帰宅するご亭主族も多いと思う。
帰宅したご亭主を、待ちうける言葉が、この「折角」である。
「あら 貴方 折角 食事を 作ったのに・・・・」
食事を済ませて帰る事を、連絡しなかった不手際もあり、ご亭主殿は、ツイツイ、
「イヤ 食べたと言っても ほんの一口 一口 一口だよ、・・・・」
こうなってしまう。
すると、カミさんから、更に追い打ちが掛る。
「あら そう 今夜のは 特に美味しいはよ 一杯食べて 一杯・・・・」
こんな風景は、・・・・実に「家庭的」であり、「のどか的」であり、「癒し的」である、・・・・ように見える。
ところがこの風景に、時間が流れると、・・・・それも、何十年単位の時間が流れると、「悲劇」となってしまうのだ。
気が着いたとき、ご亭主の体は、見事なまでの「メタボ体」に、仕上がっている。
かくしてご亭主は、ハッピーリタイヤメントならず、・・・・「病みながらえながら」の人生の終末を、悲しみと共に迎えるのである。
お間違え無く、・・・・以上は、勝俣部長の「実録的人生白書」であり、・・・・一般的で無い事を、心よりお祈りする次第である・・・・。
つづく。