勝俣部長の健康体質作り・・・・高尾山「健康を体感する」(149)

3月3日 木曜日

                             



 (「単なる水」が、あなたを変える)・・・・ああ、転 勤


サラリーマンは転勤が付きものである。
 中でも3月は、定期の人事異動が多い。
 思い起こせば勝俣部長も昭和53年(1978年)、本社(東京都港区)から仙台営業所に、始めての転勤となった。
 我々東方の人間が、大阪以外の西方面が疎いように、西方の人は東京から北寄りが甚だ疎い。
 中でもカミさんは、大阪生まれの上に、多分、絶対に地理が弱かったのだと思うが、大宮も宇都宮も仙台も区別が着かず、そっち方面はトンデモナク未開の地だと思いこんでいた節がある。
 大阪に住む母親に、仙台なんかに行きたくはないと、連日のように愚痴を言っていたようである。
 二人の子供が未就学児童であったため、子育ての関係から私は単身赴任を免れ、カミさんは渋々と私に着いて仙台に向うしかなかった。
 ところが一年もする内にすっかり仙台が気に入り、もう、ここに永住したいなどと宣(のたまう)始末、・・・・。
 大阪から母親を呼び寄せては、仙台はいいところよ、いいところよと、はしゃぎ回っていた。
 それが、仙台で3年目を迎えることなく、今度は札幌に転勤となってしまった。
 この時も、引っ越しは嫌だと一悶着あったが、どうにかこうにか説得して、北の大地に向った。
 札幌は勿論、北海道は何処もかしこも素晴らしく、子供を含め全員が気に入ってしまった。
 その、狂気にも似た我々の気に入り方を、人事担当役員がまるで見てたの如く、僅か「1年半」で本社への帰還命令が出てしまった。
 送別の折、「北海道二度泣き」の話を聞いたのだった。
    勝俣さん、北海道への転勤は2度泣くと、言われてますよ。
    一度は、北海道に来る時に、嫌だ嫌だと泣くそうですよ。
    後の一度は、北海道を去るときに、同じく嫌だ嫌だと泣くそうですよ。
 我々がまさにソレであった。
 自分を含む家族全部の大ブーイングの中、本当に渋々と北海道を離れ、騒音と、全てに手狭さを感じる東京に舞い戻ったのである。
 以来28年、・・・・私の人生は予想だにしない方向に変遷し、二人の子供はそれぞれに家庭を持ち、彼らの子供は、転勤したころの自分の年令になるつつあるのである。
 自分で費用を出すこと無く、各地を訪ねられるのだから、転勤ほど有難い事は無い、が、口癖だった私の精神を見透かしていて、・・・・多分、転勤を渋ったに違い無いカミさんは、残念なことに平成6年1月、48才の若さで忽然とこの世から消えた(急逝)。
 人生にあって「家族と共に」の時間は、長いように見えても瞬間に等しい。
 今の一緒の時間を大切にが、・・・・私からのメッセージ。
 思えば、転勤で騒々しくしていた頃が懐かしい。
 「単なる水」は様々な事象に染まり、当時を思い出させてくれる。 
 つづく。

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