6月2日 木曜日
(「単なる水」こそ、永遠なるサプリ)
街角から 消え去る風景 (この項完)
思えば、街角から色々なものが姿を消した。
時代の流れであろう。
本屋さんに始まり、昨日書いた文具屋さん、・・・・それに魚屋さん、八百屋さん、豆腐屋さん、風呂屋さん、畳屋さん、時計屋さん、荒物屋さんなど、・・・・上げれば枚挙に暇(イトマ)が無い。
考えたら「何々屋」さんが、軒並み姿を消したと言える。
この「何々屋」さんの果たす機能が、物を売る事だけだったら消えてもよかった。
ところがそうでは無かった。
勝俣部長が直訳すると、「何々屋」さんはイコール、地域の「コミュニケーションの場」でも有ったのだ。
モノを求めながら、モノは求めず、話をする場、・・・・話を聞いて貰う場でも有ったのだ。
先端技術の発展と同様に、我々は、身も心も全てが進歩したと錯覚するが、喜怒哀楽などの人間の情感は、進歩もヘチマも無い。
夫婦間のこじれはは50年前と何ら変わらず、嫁姑の確執は100年前と何らの変化も無く、昔と同じ形で続いている。
そんな人間の、煩(ワズラ)わしい心の機微の、一つの緩衝材になったのが、図らずも「何々屋」さんであったのだと思う。
技術的に進歩しながら、情感的には微塵の進歩も無い「今現在人の心のギャップ」は、「鬱病」か、「痴呆症」を産出するしか無い。
実に現代人の、・・・・イナ、日本人の深刻さはここに有る、・・・・私はそう思えてならない。
「何々屋」の代わりを、なるべく早く見つけなければならない、・・・・。
果たして可能か、・・・・。
その前に、「単なる水」を一杯飲もう、・・・・ファインアクアなら申し分無い。
つづく。