勝俣部長の「ため息」1959・・・・遠い 思い出

10月2日 日曜日



     好き勝手に 言いたい放題
ちょっと凄い 本当の話し


 山梨の片田舎で育った勝俣部長・・・・両親、長姉、次姉、本人、弟・・・・以上の6人の家族構成。
 高校入学の時、姉二人は、既にれの東京に・・・・。
 せっかく入学出来たのに・・・・多分6月だったと思う。
 父親が「甲府警察署」から、富士山の麓「富士吉田警察署」に移動となった。
 通勤は全く不可能。
 答えはただ一つ・・・・引っ越しするだけ。
 母親は当然ながら、中学2年の弟も、やや渋るものの素直に同行。
  ・せっかく 4月に入学出来たのに
  ・野球部所属 朝練 授業 午後練のリズム 既にばっちし
 答えはやはり一つ。
    「俺は 残る 絶対に行かないよ」
    「3人で 行けばいい」
 強く主張
 ほぼ瞬時に母親の出した結論。
    「分かりました 敏彦さん 一人 ここで生活をなさい」
    「一家の大黒柱を支えるの 当然な事です 私たち3人は行きます」
 単身赴任生活ならぬ・・・・子供の「単身居残り生活」誕生の瞬間である。
  ・掃除 ・炊事 ・洗濯 ・買い物・・・・
 ああそうそう、ボタンを縫い着けたり、ほころびを繕ったり・・・・。
 今思うと、そのときの訓練が、我が人生を一番支えてくれている。
 「 やれば いいだけの事」・・・・かく経由して我が「自作人生訓」は生まれた。
 母親のさとさ、親になってから、一層実感。 
 ちょいと凄い 本当の話である。 
 つづく。


 当時飲んだ井戸水 懐かしい