勝俣部長の「ため息」982・・・・衆 生(生きるものの全て)

8月14日 水曜日

                                                    
                                                     (京都花園 臨済宗大本山妙心寺」)



  手遅れになって 健康を知る
飢饉 と 施餓鬼会 (セガキエ) 


 勝俣部長、・・・・昨13日、山梨県都留市菩提寺「長慶寺」にて営まれた、今年の施餓鬼供養に参列した。
 長慶寺は、臨済宗妙心寺」派の末寺である。
 だから勝俣部長、・・・・宗派を問われれば臨済宗となる。
 ところで、「施餓鬼」とか、「盂蘭盆(ullambana)」とか、・・・・ときたま聞くが、何の事かよく分からない。
 一般的には、祖先の霊を死後の苦しみの世界から救済するための仏事、とされている。
 ところが、これもよく分からない。
 例えば勝俣部長が死んだら、子供の頃教わったように、針の山を歩かされ、血の海に投げ込まれなどするのか。
 それとも、今、現世で流行りの「いじめ」にあい、その苦しさから救うってやろうとすることか、・・・・などと、バカなことを考えたりする。
 そうでは無い、・・・・勝俣流の理解はやや違う。
  ・昔 食べ物の乏しい時代 天変飢饉に襲われたら 飢餓がはやり バタバタと死に行く人で溢れる
  ・いわれ無く死んでしまった それらの人を含め 全ての衆生(生きるものの全て)の霊を
供養すること、・・・・こう理解する。
 従って、施餓鬼供養とは、単に「自分の身内の霊」の供養(墓参り)だけで無く、全ての人の供養を為す事なのだ。
 差し詰め今の今、・・・・大猛暑は、現代版の飢饉である。
 それも飢饉である。
 熱中症の苦しみでバタバタと、・・・・あるいはゲリラ豪雨で流される、・・・・様相は、今も昔と、ちっとも変わらない。
 図らずも倒れた、それらの人々(衆生)も含め、供養する、・・・・大変意味深い理解ではないか、・・・・と手前味噌に浸る。
 超高度に発達したIT機器が、何の役にも立たないところに、・・・・供養の心はある、・・・・合掌。
 つづく。


 山梨の夏も 灼熱地獄 救ってくてるは 単なる「水」