健康体質作り・・・・高尾山の巻(28)

8月7日 土曜日


 雷災害、油断大敵、自然の恐ろしさを努々(ゆめゆめ)、私は忘れません。
 忘れたらいけません。
 つい先頃、秩父の山奥で登山パーテーの一人が滑落した事故がありました。
 重なるように、救助に向かったヘリコプターが墜落。
 更には、取材に馳(は)せたテレビ局の二人が遭難。
 言うなれば、おぞましき3重遭難となったのでした。
 小規模と言え、私も落雷で「九死に一生」を拾った身です。
(穏やかな光景でも自然はいつ何どき、・・・・牙(きば)を剥(む)くか分かりません)
 ところが人間は浅はかと言うか、バカなところがあるものでして、「昔取った杵柄(きねずか)」に酔い続ける節があります。
 と言うより、回りもオーソライズ(承認)してしまうのです。
 例えば40年も50年も昔のことなのに、「あの方、東大のご卒業ですって」とか、「お隣さん、何々商事に勤務していたらしいはよ」とか、古き亡霊が気持ちよく闊歩なさることが多いようです。
 しかしそんなモノ、「いざ鎌倉(実に古い言い方ですね)」のときに、何の役にも立ちません。
 この度のテレビ取材のお二人には申し訳ありませんが、「昔、山岳クラブにいたとか」、「山岳のエキスパートとか」、・・・・そんなもの、10日も訓練を怠ればも「元の黙阿弥/もとのもくあみ(これも凄く振る言い言い回しです)」です。
 ましてや、体重が増してれば、全くの見かけ倒しとなります。
 自然に学ぶものは、実に多いと思います。



一度自分の体を全くの外から眺めて見ませんか 
 我々は以外にも、自分の体を客観的に見ることはしないものです。
 ですから病んだときは、病んだ箇所のみが全てになります。
 例えばガンに侵された自分の体を、医者と同じように外から眺めれば、結構冷静に自分の為すことが分かるように思えてなりません。
 これって、かなり無責任だとお叱りを受けそうですが、実際、自分に入りこんだままだと、生死の判別を、人(他人)に任せることになりそうです。
 と、誠に勝手なことを言って申し訳ありません。
 我々は食物を摂取し、自前の体で消化し、その人にとっての必要な栄養分を吸収し、それを生きる源とし、更に重要なのは余分なものを排泄する機能です。
 毎日、毎日このリズムの繰り返しです。
 生涯続くのです。
 それが、一々「これはどこそこに効く」とか、「これは体の何処を活発する」とか、凡そ、本来自分の体が兼ね備えている機能を先取りしてバラ撒いても、そんなものは役にも立たないとするのが、私の理解です。」
 食物摂取から、消化、排泄、までの潤滑剤が、・・・・言うなれば裏方に徹するのが「単なる水」・・・・「単なる水しか」無いと、と、言うのが私の考えです。