8月7日 土曜日
雷災害、油断大敵、自然の恐ろしさを努々(ゆめゆめ)、私は忘れません。
忘れたらいけません。
つい先頃、秩父の山奥で登山パーテーの一人が滑落した事故がありました。
重なるように、救助に向かったヘリコプターが墜落。
更には、取材に馳(は)せたテレビ局の二人が遭難。
言うなれば、おぞましき3重遭難となったのでした。
小規模と言え、私も落雷で「九死に一生」を拾った身です。
(穏やかな光景でも自然はいつ何どき、・・・・牙(きば)を剥(む)くか分かりません)
ところが人間は浅はかと言うか、バカなところがあるものでして、「昔取った杵柄(きねずか)」に酔い続ける節があります。
と言うより、回りもオーソライズ(承認)してしまうのです。
例えば40年も50年も昔のことなのに、「あの方、東大のご卒業ですって」とか、「お隣さん、何々商事に勤務していたらしいはよ」とか、古き亡霊が気持ちよく闊歩なさることが多いようです。
しかしそんなモノ、「いざ鎌倉(実に古い言い方ですね)」のときに、何の役にも立ちません。
この度のテレビ取材のお二人には申し訳ありませんが、「昔、山岳クラブにいたとか」、「山岳のエキスパートとか」、・・・・そんなもの、10日も訓練を怠ればも「元の黙阿弥/もとのもくあみ(これも凄く振る言い言い回しです)」です。
ましてや、体重が増してれば、全くの見かけ倒しとなります。
自然に学ぶものは、実に多いと思います。
一度自分の体を全くの外から眺めて見ませんか
我々は以外にも、自分の体を客観的に見ることはしないものです。
ですから病んだときは、病んだ箇所のみが全てになります。
例えばガンに侵された自分の体を、医者と同じように外から眺めれば、結構冷静に自分の為すことが分かるように思えてなりません。
これって、かなり無責任だとお叱りを受けそうですが、実際、自分に入りこんだままだと、生死の判別を、人(他人)に任せることになりそうです。
と、誠に勝手なことを言って申し訳ありません。
我々は食物を摂取し、自前の体で消化し、その人にとっての必要な栄養分を吸収し、それを生きる源とし、更に重要なのは余分なものを排泄する機能です。
毎日、毎日このリズムの繰り返しです。
生涯続くのです。
それが、一々「これはどこそこに効く」とか、「これは体の何処を活発する」とか、凡そ、本来自分の体が兼ね備えている機能を先取りしてバラ撒いても、そんなものは役にも立たないとするのが、私の理解です。」
食物摂取から、消化、排泄、までの潤滑剤が、・・・・言うなれば裏方に徹するのが「単なる水」・・・・「単なる水しか」無いと、と、言うのが私の考えです。