勝俣部長の「ため息」2363回・・・・飛びっこ

10月16日 月曜日

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           (北海道「ポプラ並木」)

 

 

 

      好き勝手に 言いたい放題

今は 全く使わない だろうな

 

 

 勝俣部長・・・・生後2カ月から高校2年生まで、山梨県南巨摩郡(コマグン)鰍沢町(カジカザワチョウ)・・・・現在の富士川町に住んだ。

 この町・・・・明治25年に、「村」から「町」に昇格し、町政を敷いた。

 日本でトップクラスの、早い「町」の誕生であったろう。

  (螻蛄様様の住んだ地と比べれば雲泥の差かな)

 本町とか、横丁とか、上町(カミチョウ)とか・・・・数は覚えていないが、幾つかに区分されていた。

 小学校は文字通り「鰍沢小学校」呼び、中学は「鰍沢中学」と呼んだ。

 町は静岡県富士市に抜ける「富士川」と、反対側が高さの無い山に挟まれた・・・・極めて狭小の地形をしている。

 その為、小・中学校は、真ん中のグランドを共有し使った。

 小学校から見れば、グランドの先に中学が・・・・中学からはその逆となる。

 運動会は・・・・多分10月、小・中学、同時、合同の開催であった。

 今問題の組体操は人気のプログラムだった。

 が,何と言っても、運動会に集まった全員が、大興奮するのは、町エリア抵抗リレー競技だった。

 参加チームは冒頭の本町チーム、上町チームなどの、行政の区画単位で・・・・10チーム以上が参加したような記憶が残る。

 チームの構成は・・・・小学1年生から走り出し、2年生、3年生と続き、6年生から中学1年生、2年生へと繋げた。

 最後は3年中学3年が、大人(成人が)へバトンタッチして決着を見た。

 当然ながら各チーム、選りすぐりの「足の速さ者」をそれぞれ選抜させた。

 ちょっとズレが・・・・山梨では走る事を「飛びっこ」と言っていた。

 だから選抜されるのは・・・・「あいつは 飛びっこが早いからな」で納得したもんである。(もししたら螻蛄様様から詳しい解説があるかもしれません)。

 勝俣部長と違い、飛びっこが得意だった実弟は、小学1年より、中学1年生まで走っていた。

 だから家族は大興奮をした。

  (中学2年のとき富士吉田市に転校)

 差し詰め、超小型版「箱根駅伝」である。

 傑作と言うか、何故と言うか・・・・絶対在り得ないと言うか・・・・このリレーのプログラム印刷名は・・・・部落別対抗リレーとなっていた。

 町政を敷き30年以上は優に経った時でさえも・・・・一般として騒がれる部落の意味で無く・・・・純粋の意味で、住人の区画意識は「部落」であったのだ・・・・。

 つづく。

 

 

 富士川での 夏場の水泳が懐かしい